out of control  

  


   19

 獣牙族の二人を連れてどうにか山を越えたことを知らせにノクス城に着くと、待ちかねていた様子のティバーンとリュシオンが迎えてくれた。
 リュシオンは本当に心配してくれていた様子が伝わってうれしかったな。
 ティバーンの方は俺の知らない間になにがあったのか、やたらまとわりついてきやがって突き放せなくて参ったね。
 湯殿の件はとりあえず「ふざけるな」と衝立ごとティバーンを蹴飛ばして、俺は別の風呂を使わせてもらった。いくら貧しいとはいえ、城なんだ。客が使える風呂が一つしかないなんてことはない。
 狭いのでと城主が気にしていたが、俺としちゃ湯で身体を清められるならそれで充分だ。
 香油も何種類かあったから、好きなものを入れて一人でゆっくりと入浴して着替えを済ませたあとは、昼食がてら城主のエドモン卿とあれこれ話をしてこの日は休むことになった。
 本当はすぐにでも出発したかったんだが、リュシオンの顔色が悪かったんだ。
 自分のせいで出発が遅れたら落ち込むからな。そこは俺が少し休みたいと弱音を吐いて、俺の弱音に慣れていないリュシオンは慌ててもう一日この城に留まることを承諾してくれた。
 ティバーンになにがあったのかを詳しく訊けたのは夜になってからだ。アイクは「俺は行っていないから詳しいことはわからない」と首をかしげるし、ティアマトとセネリオはなにも話さない。ヨファには涙ぐんで思い出したくないように謝られたから、本当になにがあったのか心配になったぐらいだった。
 寝る前にオスカーが淹れて行ったお茶を片手にようやく聞き出した内容は、俺が想像していた範囲を超えるものではなかったが、確かに惨いものではあった。
 二度の大戦で多くの将兵が戦死した今、デインの兵の質は落ちる一方だ。本来なら正規兵と名乗らせるべきじゃないような連中が多くなった。
 賊から国を守るために兵力は必要だが、その兵力にしたつもりの連中に誇りはない。目の前に金や酒、食料が積まれれば、それを分け与えるよりも自分たちで独占したくなるってのは当然の成り行きだな。
 それが、飢えるって現実だ。
 頭ではわかっていても、戦士は弱い者を守る存在で当然だと思っているティバーンには信じ難い状況だったろうよ。
 傷つけられたのは娘たちの身体と心だけじゃない。娘たちを助けられなかった村人たちも同じだ。
 身体の傷はセネリオの回復の杖でずいぶん癒えたらしいが、それでも心に残る痛みはどうしようもない。
 力がある者は時として力のない者の辛さをまったく理解できずに詰ることがあるが、ティバーンには自分に力があるからこそ、それを持たない者の痛みを思い遣ろうとする部分がある。
 わからないから、想像する。想像してもわからないから、不用意なことは言わない。
 ただ自分に力があり、目の前で力のない者が虐げられているから助ける。見返りは己の誇りだけで充分だ。
 ……ティバーンのこんな部分は、嫌いじゃない。愚かしいと思うのも本音だがね。
 それでも、あの誓約に縛られた中でもティバーンのそんなお節介に慰められた部分があったのは事実だ。
 まるで内緒話をする子どものように二人で寝台に座ってぽつぽつと語ると、ようやく重いものが一つ取れたように大きな息をついたティバーンは俺を小脇に抱えたままごろりと転がってそのまま寝息を立てはじめた。
 ……だんだん、わかってきたぞ。こいつは甘ったれなんだ。なにか辛いことがあると、身体ごと温めて欲しがる。
 大きな図体をして情けない。そう言うのは簡単なはずなのに、いざ全身でぶつかってこられるとなにも言い返せなくなって、ほとんどなすがままになっている自分が不思議でしょうがなかった。
 歳からすれば俺より大人のはずなのにな。もちろん、今は俺も大人だが。
 ティバーンはしっかりしているが、それでもまだまだ鳥翼族の男としては若い。悩んだり苦しんだりしたら、それを上手く飲み込むこともできないだろう。
 俺はティバーンより若いが、そういうものを飲み込んでばかりだったから、少しはティバーンより表情を繕うのも上手いのかも知れない。
 もしかしたら俺はこいつのことを年下ぐらいに考えて相手すればいいのかね?
 逞しい腕からなんとか抜け出して頬杖をついて寝顔を眺めながら、俺はいかにも健康そうな寝息を邪魔しないようにティバーンの固い髪を梳いた。
 俺も自分の客室に行きたいんだがな。その方がお互いにゆっくり眠れるだろうし。
 ベオクの社会では同性の愛妾を一人も持たない王や貴族はほぼいないし、そういう意味では誰も気にしないのかも知れないが………俺が神経質なだけか。
 どうやら寝入ったことを確認してからたっぷりとした羽毛の布団を肩まで掛けてやり、俺は温くなった酒を飲み干してランプを片手に立ち上がった。
 どうも目が冴えて眠れそうにない。
 疲れてるはずなんだが、久しぶりに岩場や湿った枯れ草の上じゃないから落ち着かないのかも知れないな。
 そう思いながら柔らかな毛皮の室内履きに足を入れてテラスに出ると、空にそこだけ丸くくりぬいたような青白い月が浮かんでいた。
 夜目が利かないとはいえ、明るい星だったら俺の目にも見える。ベオクにはもっとたくさんの星が見えるらしいから、それだけはちょっと羨ましいね。それは見事だそうだからな。
 ベグニオンなんかはわざわざ大陸から離れた孤島のような領地、アニムスにある大きな塔を月と星の神殿にして研究してる。あんな場所にあるから、神官としてあそこに行っちまったらもう一生帰れないそうだ。
 もっとも、高位の神官になると転移の粉だの杖だのを使えるようになるから、その気になれば移動できるんだが、それでもそんな魔力のある神官ばかりじゃない。なによりその手のものは高価で、肩書きもない神官が手を出せるようなものじゃなかったからな。俺がキルヴァス王だったころはなかなかいい顧客だった。
 家族への手紙や嗜好品の仕入れもあったし、一度はどうしても母親の死に目に会いたいと泣きつかれて連れて飛んだこともある。
 俺たちの方でも空に起こるさまざまな現象について教えてもらえて、そこは興味深かったな。付き合いが始まったのは何代か前の王で、なんでも書き残す性格だったから手記は俺も楽しんで読んだ。
 そう言えば、あの神殿にはなにか面白い宝が眠ってるらしいという話を聞いたことがある。もしかしたらセフェランだったら知っているかも知れないな。
 この前会った時に訊けば良かったか。まあ慌てなくても向こうも俺も寿命が長い。落ち着いてからでも充分と言えばそうだがな。

「……ネサラ?」

 懐かしいことをぼんやりと思い出しながら夜着の上に羽織った毛皮のマントの前を合わせていたら、隣の部屋のテラスからリュシオンが顔を覗かせた。
 珍しいな。リュシオンも起きていたのか。

「どうした? 眠れないのか?」
「ネサラの方こそ……大変だったのではないか?」
「いや、二人とも強いからな。苦労はなかった」
「そういう意味じゃない。おまえは神経質だから」

 どういう意味だろうと首を傾げると、リュシオンは笑って羽ばたき、こちらの太い手すりの上に腰を掛けて続けた。

「二人とも気の良い者だ。でも、疲れたんだろう?」
「あぁ……そういうことか」

 俺たちの珍道中と呼ぶに相応しい旅の成り行きが想像できたんだろうな。笑ったリュシオンに肩を竦めて、俺より少し高い位置にあるリュシオンの白い顔を見上げた。

「いや、本当に大丈夫だ。最初は少し疲れたんだが、きっと慣れたんだろう」
「そうか」

 これは嘘じゃない。まあ確かにあのごろごろと喉を鳴らす音にはうんざりしたが、過ぎてみればそれも面白い体験の一つだった。
 隠さずに見せたそんな俺の気持ちをどう思ったのか、どことなくラフィエルに似た微笑を浮かべたリュシオンが頷き、静かに俺を見つめた。

「ネサラ」

 なんだ? 訊く前に、リュシオンが口を開く。

「あの鴉の男のこと……大丈夫か?」
「それはあの男が? それとも、俺の方か?」
「…………」

 なにも言わないってことは、俺の方だな。
 案の定、ぼんやりと金色の光を帯びたリュシオンが視線を伏せる。それからふわりと白いため息を零し、ゆるゆると首を振った。

「すまない。どうも神経質になってるようだ。おまえはなにも言わないから」
「それは昔の話だろう。今はちゃんと話してるぞ。気持ちも隠していないつもりだが?」
「時々隠してるだろう? まあ、おまえに言わせればもう癖のようなものなのかも知れないが……ちゃんと気がついているぞ」
「そうか?」
「そうだ」

 こりゃまた、ずいぶんはっきり言われたな。苦笑して前髪を梳くと、リュシオンも笑って羽ばたき、俺の前に浮かんで俺の髪や頬に触れて言った。

「もう寝ろ。ここは寒い。私は鷺だから寒さや暑さはまったく堪えないが、おまえは少し辛いだろう?」
「まあね。ベオクほどじゃないけどな」

 ラグズは総じてベオクよりも寒暖の差が堪えることはないが、か弱いばかりだと思われがちな鷺が実は一番気温の変化に強い。今もリュシオンは申し訳程度に長衣(ローブ)を羽織ってるだけで平然としてる。

「おまえの化身の力も戻ったし、安心した。でもなにかあった時は、私に言えなくてもティバーンには言うんだぞ?」

 珍しいな。自分に言えじゃないのか。
 ちょっと意外に思って目を丸くしたら、むっとした表情をしたリュシオンがずいっと俺に顔を寄せ、華奢な手で挟むように顔を掴まれた。

「私に素直に言うようなら最初からなにも言わない。約束しろ。もう一人で泣かないと」
「いや…あのな、リュシオン? 昔はともかく、大人になってからは一人で泣いた記憶なんかないぞ?」

 もちろん、一人じゃなくても泣いたりしないが。大体、そんな悠長なことをしてられる余裕もなかったからな。
 どこでそんな誤解をしてるんだ?
 そんなつもりで言ったんだが、リュシオンは信じてないな。緑の双眸に浮かべる光をきつくする。

「おまえの表情が信用ならないのはもう学習済みだ。でも、忘れるな。昔も今も、私はおまえの手を離したことはない」

 驚いて目を丸くした俺の額に自分の額を合わせると、リュシオンは鷺特有の魔力の宿った声で続けた。

「もちろん、これからもだぞ」

 たとえ、なにがあっても。
 言葉にはしなかったそんな思いが伝わって、俺はなにも言えなかった。
 言うだけ言って満足したのか、ようやく離れたリュシオンは羽ばたいて自分の部屋のテラスに戻り、「それだけだ。おやすみ」と中に入る。
 俺はと言うと、白い月に見下ろされて一人で赤面、だ。
 くそ、………知ってたのか。
 参ったな。守ってるつもりが、守られてる。
 鷺ってのは本当に怖い種族だ。
 でも、どうしてだろうな。……素直に、うれしかった。
 鷺の言葉は絶対だ。そこに一片の偽りもない。
 なにがあってもあいつだけはそこにいる。それを呪縛だと思う者もいるだろう。
 だが、俺にとってリュシオンの言葉は救いだった。
 ――あのころの俺に聞かせてやりたい。
 もちろん、泣いたこともあったさ。リュシオンの言うように、一人で。
 まだ王になったばかりのころは、ベグニオンからの帰りに、傷を受けた身体で何度も海に落ちた。
 どうしたって無理なことを要求された時にどう凌ぐのか。
 それを考える余裕もなかったりしてな。もちろん、誰かに相談なんてできっこない。ニアルチがいても、シーカーが、ほかの鴉たちがいても、俺は独りだった。
 平然と難題をこなす王でなくちゃいけない。
 俺が泣けるような場所は、陽が沈む海の上や誰も知らない小さな島ぐらいだった。
 もちろん、子どものころの話だが。
 こんなところで、結局奴隷のような生活を……違うか。少なくともここじゃ鞭では打たれないんだろうが、とにかくそんな日々を幸せだと言った鴉の男の笑顔は辛かった。
 その痛みが少しだけ癒されたような気がしたんだ。
 ……そうだな。俺に助けて欲しいと言って貰いたかったってのは、俺の驕りだ。無理に連れ帰っても、あの男が笑って過ごせないなら意味はない。生まれた時からあの歳になるまで奴隷だったなら、変えられないものは確かにあるだろう。
 なぜなら、人としての尊厳を持ち、自分の力で生きることは、奴隷にとっては一番の幸福ではない。一番の幸福とは、慈悲深い主人に仕えることなんだから。
 俺が良かれと思ってセリノスに連れて帰っても、きっとあの男にとってはいらぬ世話どころか、自分たち鴉の長たる俺があいつにとって意地の悪い暴君だと悲しませるだけだ。
 一つ息をついてそう気持ちにけりをつけると、俺はちらりとティバーンが眠ってる寝台の方に目をやり、テラスから自分にあてがわれた客室に入った。外にいる間にすっかり冷えちまったから、このまま潜り込むと起こしそうだと思ったからだ。
 ランプの光を頼りにマントを脱いで広い寝台にもぐりこむと、暖められていたはずの寝具はすっかり冷え切っていた。貴族に限らず、ベオクは寒い時はわざわざ豆炭や石炭を入れた鉄の道具で寝具を暖めるらしいが、そんなことをしなくても俺たちは寝具が冷たくて眠れないなんてことはない。
 元老院の連中の屋敷でも見たことがあったな。小間使いや奴隷にされたラグズの連中も使っていたけど、中には安物の豆炭や石炭に混ぜ物が入っていて弾けて火傷をしたり、機嫌の悪い主人に押し当てられて怪我をした者も少なくなかった。
 ラグズの奴隷解放は進んでる。だが、貴族連中は奴隷のいない生活なんて考えられないだろう。
 ベオク同士で勝手にやってくれる分は構わないが、これがまた火種にならなかったらいいんだがな……。
 寝台にもぐりこむと、とりとめのないことを考えるうちにようやく眠気がきた。とにかく、先のことばかり心配しても仕方がない。まずは目先のことだ。ランプの火を消して強引に目を閉じると、俺は久しぶりに寝台で休める有り難味を味わうことにした。

 翌朝、早い朝食を済ませたあと、俺たちは城主に名残を惜しまれながら出発することになった。
 ダルレカまで移動するのは俺とティバーン、リュシオン、アイク、セネリオ、それからスクリミルとライだ。
 ティアマトとヨファはもう一度問題のあった村に行くらしい。それから城主の頼みで、他にもきな臭い情報のあった村の視察を手伝うそうだ。あんな連中の情報網は侮れない。今回のことは賊に転ぶか迷ってる連中への見せしめにした方が良いからな。
 今のうちに弛みがちな規律を「確認」して回るというところだろう。朝食の席で顔を合わせたティアマトはすっかり騎士の顔になっていた。
 さて、じゃあダルレカへの移動はどうしたものか。
 朝食に出る前の湯を使いながら考えていたんだが、それは意外な方法で片がついた。ジルとハールが直接迎えに来てくれたんだ。これは有難い。竜の方が俺たちよりも力があるから、スクリミルとライを任せることができるからな。
 そういうわけで、俺はセネリオを、ティバーンがアイク、ジルはライ、ハールがスクリミルを乗せて飛ぶことになった。
 気候の良い日に直線で飛べば、数時間もかからない距離だ。だが今は風が強くて、吹雪になろうものならどこかに降りることも考えなくちゃならない。特にノクス領とダルレカ領を隔てる大きな川とその先の湖の辺りは寒さが厳しくて、氷の厚さが家の高さほどにもなると聞く。
 温石も用意したがそれでも寒さは厳しくて、セネリオが用意した炎の術符をつけた毛皮のマントがなければ早々に移動を諦めなければならないぐらいだった。
 森があるところは低めに飛べば風が緩い分耐えられるんだが、川の辺りはどうしようもないからな。湖の上を飛んだ日には凍死するんじゃないかってぐらいの寒さだ。
 それでも日暮れ前にはダルレカ領に着いて小さな領主館に一泊し、次の朝にネヴァサに向けて発った。
 ダルレカからネヴァサまでは距離がある。休憩も充分取り、神竜騎士の二人からは野性の飛竜の話や今のデインの状況をあれこれ聞いた。
 もっとも、ハールは暇さえあれば居眠りしてるから、話をするのはもっぱらジルばかりだったが。ハールの方は話に興味がないのかと思っていたら、そうでもないんだな。ジルがわからない時は横からぼそっと口を挟んでいたのが可笑しい。
 素直に会話に加わりゃいいのに、妙な男だ。夫婦になったと聞いたが、こんなところを見ると以前とまったく変わらない。上司と部下のままみたいだな。
 そして、ダルレカから飛ぶことほぼ二日。
 俺たちはデインの王都、灰色の町ネヴァサに辿りついた。

「鴉王、どうかなさいましたか?」
「いや。この辺りは予想より荒れてないと思ってな」
「王都ですからね。救援物資も衛兵の監視もそれなりに行き届いてるのでしょう」

 気の優しそうな緑の騎竜の上で振り向いたジルに訊かれて答えると、俺の背中のセネリオが付け足してくれた。

「ああ、そりゃまあそうでしょうねえ。王都が荒れたらその国はもう終わりですよ。あ、でもスリはいるなあ」
「なんだと? よし、では俺が……」
「やめてください。こんな街中に獅子王が降り立ったら騒ぎどころじゃ済まんでしょう」
「そうだぜ。それに、子どもだ。逃げ足も速ぇし、もう路地裏に逃げ込んだ。ああなったら獲物はあの坊主の戦利品だ」

 耳をぴくぴくさせながらのライの一言にスクリミルが唸り、それを相変わらずやる気のなさそうなハールが諌めて、最後はティバーンが笑いながら答える。
 戦利品、ねえ……。良くないんだが、生きていくためには金も飯もいる。それは理屈じゃないからな。
 リュシオンも同じ気持ちだったんだろう。眉をひそめたリュシオンと目が合って、俺たちは肩を竦めた。

「とにかく、まずは城に行こう。話はそれからだ」

 最後まで黙っていたアイクの一言に頷き合い、化身を解いて、町を見下ろす高台にそびえる石の城を目指す。衛兵たちは…騒がないな。一応、話は通ってるらしい。
 それでも、にわかに緊張した黒い甲冑の兵士たちが落ち着きなく俺たちを見上げて敬礼し、巨大な城壁を越えて直接中庭に降り立つと、まずは思いがけない声が出迎えてくれた。

「おーい! 久しぶりです! 鴉王、スクリミル将軍〜!」
「ちょ、ちょっとエディ、失礼をしちゃだめだよ」
「む? おお、エディとレオナルドか!」

 緊張で固まった黒い甲冑の兵士たちを掻き分けるように出てきたのは、幼さの残る少年剣士のエディと、いかにも育ちの良さそうな弓兵のレオナルドだった。

「獅子王!? 危な……」

 二人とも俺たちと同じ隊だったからな。ぱっと笑顔になったスクリミルが慌てたジルの制止を振り切ってまだ飛んでいるハールの黒い騎竜から飛び降り、重い音を立てて石畳の上に着地する。
 勇ましい黒い甲冑姿の衛兵たちがスクリミルを中心に蜘蛛の子を散らすように逃げたのは、まあ…仕方ないのかも知れないな。
 ティバーンはやっぱり笑ってるが、俺とライは頭痛をこらえるように頭を抱えた。

「二人とも久しぶりだな! どうだ、少しは大きくなったか!?」
「なったなった! ちょっと背が伸びたでしょう!?」
「わあッ、ス、スクリミル将軍、皆さんが見てますから…!」

 豪快に笑ったスクリミルが元気良く駆け寄ってきたエディと、遠慮がちにそばに来たレオナルドの二人をそれぞれ片腕に抱えて俺たちを振り返る。
 まったく、相変わらずだな。だが、面食らいはしたみたいだがこれでデイン兵の緊張もだいぶ和らいだ。
 俺たちも次々に降り立つと、ようやくスクリミルの腕から下ろされた二人がまず跪いて挨拶してくれた。

「遠いところをようこそおいでくださいました!」
「我らが王と巫女の願いをお聞き届けくださり、心から感謝申し上げます」

 衛兵たちもそれでようやくティバーンとスクリミルが他国の王だと思い出したのか、はっとして次々と跪く。なかなか壮観だ。

「では、鳥翼王様、獅子王様……私たちは騎竜を繋いでまいります」
「後はお話し合いが終わるまで控えております。なにかございましたらお呼びください」

 ジルとハールも膝をつき、口上を述べてから下がる。
 スクリミルは水臭いとでも言いたそうな顔をしているが、本来だったら王が二人も来ているんだからこんな程度の出迎えで済む話じゃない。
 もちろん、今回は先触れもないお忍びのような状態だから仕方ないがな。
 ティバーンが身振りでエディとレオナルドを立たせると、俺たちは二人の案内でようやくデインの灰色の城に入ることができたんだ。
 石造りなのは俺たちの城も同じはずなのに、どうも寒々しく感じるのは色のせいかも知れないな。かつては栄華を誇ったはずの天井の高い城の中は、惨憺たる様子だった。
 長い廊下の壁にある燭台の銀はほとんどが剥がされ、蝋燭も三つに一つしか点していない。壁の絵は手入れを忘れられ、花瓶に飾られる花もなく、擦り切れても絨毯が残ってるだけでまだましというような有様だ。

「びっくりしたでしょう? あの、寒くないですか?」
「誰に聞いてる? 俺たちラグズはベオクほど寒さに弱くはない」
「じゃあ……」
「俺も平気だ」

 おどおどと訊いてきたレオナルドに答えてやると、ベオク代表のアイクも頷いて言ってやる。
 それで二人の顔が少し明るくなった。

「ずいぶん、苦しそうだな」
「おれは、政治のことはよくわかんないですから……。ただ、山賊とか出たらレオナルドやノイスたちと倒しに行ったりするだけで」
「でも、その山賊がもともとデインのどこかの村人だったってこともあるんです」

 レオナルドがそこまで言って口を噤むと、俺の横に並んだエディがぐいと目元を拭いながら俯いた。そっと抱いてやった肩の薄さで、育ち盛りなのに以前より痩せたことがわかる。

「ネヴァサには今、タウロニオ将軍もいないんだな?」
「うん。じゃなくて…はい。ブラッドといっしょにずっと近くの村を巡回してます。あれじゃ将軍もぜんぜん休めないよ。サザはアイクさんが来てくれたし、ベグニオンにダチがいるから潜り込んで今回の解決策がなにかないか探ってくるって行っちゃったし……。ベグニオンのやつらと戦ってた時は、向こうが悪いって思ってた。でも今はそうじゃないし、おれ…デインを守りたくて戦ってきたはずなのに、なんで同じデインの人に剣を向けなくちゃいけないのかわかんないです。でも、でもさ、ミカヤも王も一生懸命で、大変なのもわかるし」
「どこの穴を塞いでも次々に別の穴が空く。二人とも寝る時間を惜しんで対策を立ててるんだけど、追いついてないのが現状です」

 二人とも顔色が良くないな。
 同じ事を考えたんだろう。ティバーンは厳しい顔をして、リュシオンは痛ましそうに眉をひそめてそっとレオナルドの背中を撫でてやった。
 戦争なんかに子どもが関わるものじゃない。
 だが、そんなことを言ってられないような状態なのは間違いないか。

「鴉王……お願いです。ミカヤを、王を助けてください。あのままじゃ二人とも倒れちゃうよ」

 俺の袖を握って言ったエディの大きな目から涙が落ちて、俺はなにも言えずに懐から出した手巾でその涙を拭いてやった。
 まだ子どもの手だ。それなのにすっかり硬くなって、荒れた指が痛々しい。俺の後ろで苛立った様子のスクリミルが「子どもが泣かねばならんような国は…!」と言い掛けて、焦ったライの手が口を塞ぐよりも先に自分で黙ったところは褒めるべきかも知れないが。
 行軍中は、よく他愛ない騒ぎを起こして皆を和ませた。思えばエディはいつも笑ってたな。本当は辛い時もあっただろう。それでも、集団の中での自分の役割を知ってるからこその明るさだと俺は知っていた。
 レオナルドはいつもそんな相棒に巻き込まれて、諌めて、でも結局いっしょに笑い合って……良い子たちだ。俺もこんな子どもたちの泣き顔を見たいとは思わない。

「俺にできることがあるかどうかはまだわからない。それに、今の俺はセリノスの一介の外交官だ。一番に守るべきものはほかにある。それはわかるな?」
「うん……」
「とにかく、まずは話を聞いてからだ」
「こちらです」

 頼りなく揺れるエディの大きな目に胸の痛みを覚えながらぱさついた栗毛の頭を撫でて言い聞かせると、レオナルドがひときわ重厚な扉の前で足を止めた。ここが謁見の間だな。
 重々しい軋みを上げて開く扉の前を、まずティバーンとスクリミルに譲る。厳しい表情をした二人とリュシオンの後ろについて、俺は心細そうな様子の二人の肩を抱いた。
 がらんとした空間だ。ひときわ高い天井と、緋色の絨毯が見えた。暗いのは吊り上げてある巨大なシャンデリアの蝋燭の数をずいぶん減らしているかららしい。そんな部屋の中で、奥にあるそれだけが不釣合いなほど立派な玉座がむしろ滑稽に見えた。
 そして、そんな寒々しい空間に、デインの主たる二人が立っていた。

「ようこそおいでくださいました。鳥翼王、それに獅子王……鴉王も」
「本来だったらこちらからお伺いしなければなりませんのに、わざわざこのような遠方までお越しいただいて本当に申し訳ありません」

 驚いた。デイン王は玉座に座らずに立って俺たちを出迎えたんだ。たとえ自分の立場が低かろうと、こんな場面なら玉座に座っていた方が良いんだが……。

「久しぶりじゃねえか。相変わらず生ッ白いな。ちゃんと食ってるのか?」
「はい。最低限は……。僕が今倒れるわけには行きませんから」

 いつもの仕草で腕を組んで努めて明るく言ったティバーンに、デイン王ペレアスは力なく笑った。
 なんというか、本当に線の細い王だな。あのアシュナードと黒竜王の娘の間に生まれた息子とは思えない。額の印は精霊と契約を交わした印だから親無しじゃないらしいが、ここまで似てないのも不思議だ。
 まあ、俺は獣牙族ほど鼻が良くないからな。もしかしたら二人に訊けばベオクとはやっぱりちょっと違う匂いがすると言われるかも知れないが。

「鴉王さま…それにリュシオン王子。お二人がお元気そうで良かった。この度の騒動……本当に申し訳ありません」
「なぜ俺たちに謝る?」
「そう…ですね。わたしが本当に謝らなければならないのは、犠牲になった多くの……」
「ミカヤぁ」
「エディ、だめだよ」

 最後まで言えずに俯いた巫女の細い肩を銀色の髪が滑り落ち、慌てて駆け寄って慰めようとしたエディがレオナルドに引きずられて後ろに下がる。
 参ったな。べつにいじめるつもりはないんだが。リュシオンもどう言葉を掛けたものか迷った様子で俺を見て、いかにもこんな場面が苦手そうなスクリミルは情けない顔をしてがりがりと炎のような赤毛頭を掻いていた。

「挨拶はその辺で良いのではないですか?」

 そんな空気を冷ややかな声が振り払う。
 もちろん、平然とこんなことを言い出すのはセネリオだ。

「事は急を要するからわざわざラグズの王の方々においでいただいたはずです。早々に話し合われたらいかがですか?」
「そ…そうだね。その通りだ。申し訳ない。まずは話し合いの部屋を用意しました。こちらです」

 傲慢と言ってもいいセネリオを咎めることなく、デイン王が俺たちを手招いた。昼間でも暗いからな。巫女が手燭を持って先導するのは、城の一番奥に当たる部屋だった。
 王族の会談には似つかわしくない、こじんまりとした部屋だが円卓もあり、暖炉にも火がくべられていて、この部屋に限っては壁の燭台の銀やタペストリと毛皮も無事だった。

「あ…お久しぶりです」
「なんだ、キルロイじゃねえか。おまえも来てたんだな」
「はい、ティバーン様。それに、ネサラ様も」

 真っ先に声を掛けてきたのは、中で待っていたらしいグレイル傭兵団の白い杖使い、キルロイだった。シノンとオスカーも壁際にいて、シノンはそっぽを向いただけだがオスカーは黙ったまま丁寧な礼を取る。

「ボーレも来てるらしいじゃねえか。ウルキが残念がるだろうな。会いたがっただろうぜ」
「はい。僕も残念ですけど、でも落ち着いたらまた一度セリノスに伺うつもりです。スクリミル様も、ライさんもお元気でしたか?」
「もちろんだ!」
「そりゃ、オレたちは元気さ。それよりあんたは大丈夫かい? あんまり顔色が良くないぞ」
「僕はいつもこんなものですよ。ペレアス王、ご依頼の通り、人払いはしてあります」
「ありがとう。皆さん、どうぞお掛けください」

 ……なるほどな。キルロイの一言でちらりと窓の外を覗くと、毛皮にくるまったガトリーとボーレらしい男が見えた。シノンが立つ位置は出入り口の前だし、オスカーは……給仕役か。そういう内容の話をしたいわけだ。
 いくらベオクが盗み聞きするつもりでも、俺たちの方がはるかに耳も良いし気配にも聡いが、それはべつに言わなくていいだろうな。こうやって盗聴を気にかけている姿勢を見せることが重要なんだ。
 エディとレオナルドの二人は所在なげにもじもじしていたが、ため息をついたシノンが顎でキルロイを指し、微笑んだキルロイが暖炉のそばのソファに二人を手招いてやった。

「どうぞ」
「どうも」

 オスカーの淹れたバター入りの濃いお茶を一口飲むと、ようやく人心地ついた気がする。それは他の面々も同様のようだった。
 ライだけはバター茶が苦手なようで耳をへたらせていたが、全員が厚みのあるカップを置いて視線を向けたところで、デイン王が緊張した面持ちのまま口を開く。

「まずは今回の騒動についてです……。現在各地を騒がせている泥の怪物については……我らベオクの戦死兵であることが、確認されました」
「デイン兵も、ベグニオン兵もいます。ただ、わたしたちにはどうして今になって彼らがさまよい出たのかがわからないのです」

 デイン王の後を続く形で巫女が付け加えると、さらにセネリオが補足した。

「泥の怪物が出現したことは過去にも二度、あります。いずれも大戦と呼ばれる大規模な戦争の後でした。三年前も、今回もそうです。特に戦死者が多い場所から怪物が出ている。状況としては一致していますね」
「戦死者が多い場所……つまり、そこにそれだけ『負』の気が澱んでいることになる。それも関係していると私も、父も考えている」

 最後にリュシオンがそう言ってティバーンを見た。…って、ティバーンはなんで俺を見るんだ?
 やれやれ、アイクもこういった場面はセネリオに丸投げだが、ティバーンまで真似しなくてもいいだろうに。

「俺もそう思う。……というより、他に考え付かないからってのもあるがね。デイン王、今回のことについてなにか手は打ったのか?」
「死者をまずきちんと弔うことが対抗策だと城の文献で読みましたので、大量の聖水を持たせた神官を派遣しました」
「結果は?」
「………ご覧の通りです。どの程度の効果があったかは……」
「わからない?」
「はい。……申し訳ありません」

 やれやれ、こいつもクリミアの女王と同じでやたら腰が低いな。王なのにこれじゃ下に舐められて大変だろう。
 居丈高なのも褒められたもんじゃないが、王の立場としてはその方がまだましだ。一度その辺りを指摘してやるべきかも知れないな。

「その連中が役目を放棄して逃げた可能性は?」
「ありません。いえ、……ないと思います。デインでは神官の婚姻が許されています。息子を亡くした神官もいました。なんとしても弔いたいと言って出発しましたから。でも……」
「誰も、帰って来られなかったんです」

 敢えて意地の悪い言い方をした俺に、デイン王が初めて強い目をして答えた。自分の名誉よりも他人の名誉か。……そんな王は嫌いじゃないね。
 ただ、最後は悲しそうに濃い色の睫毛を伏せたデイン王の代わりに、巫女が小さな声で言った。
 帰って来なかった、じゃない。来られなかった、か。
 神官ってのは光魔法が得意だ。今回の怪物に対しては炎よりも効果が高いはず。
 それでも帰って来られなかったってのは、最悪の結果になったらしいな。

「デイン側の被害は?」
「わかっただけでも七つの村と、問題の山岳部にある町が二つです。襲われた村のうち二つは壊滅、ただ、怪物だけのせいではなくて賊も出ていたのではっきりとしたことはわかりません」
「偵察に出せる人手がないんです。ジルとハールもよくやってくれていますが、ダルレカの守りもありますから……」
「マラド領は?」
「フリーダも自分の領民を守るだけで精一杯で動く余裕がないそうです。あの辺りは特に山賊が多いですから」

 なるほど。今の段階でも動ける者は総動員ってところか。
 はっきり言って、俺たちにデインを助けてやる義理はない。そんなことをしたってコイン一枚分の価値もないからな。
 しかし、広い大陸じゃないんだ。いつまでも政情不安な国があるのはいただけない。
 顎に指を当てて考えていると、いつの間にか周りの視線が俺に集中してることに気がついた。
 ライとティバーンは心なしかにやけてるし、スクリミルははなから俺に投げる気満々だし、リュシオンは正義に燃えてるし、アイクはいつもの通りふんぞり返ってるだけだし、セネリオは……なぜか呆れてる気配がする。
 いや、しかしだな。なんでこんな場面で俺が答える羽目になってるんだ? 立場としてはティバーンとスクリミルが答えるところじゃないか。

「俺としちゃ正直、デインがどうなろうが知ったこっちゃねえ」
「うむ、それについては同感だ。我が民がデインの者から受けた仕打ちの数々は、赦せんものばかりだからな」

 黙ったままの俺に業を煮やしたか、姿勢を正しながら腕を組んだティバーンと燃えるような赤毛頭を振って頷いたスクリミルの一言に、小さな悲鳴のような声が上がった。緊張した顔で俺たちの話を聞いていたエディとレオナルドの二人だ。
 悲壮な面持ちになった二人をキルロイが慌てて慰めるが、そんな様子をちらとも見ないままティバーンがにやりと笑う。

「だが、このまま待ってたって埒は開かんだろうし、なによりこの騒動にはすでに俺の国も巻き込まれている。対応策を立てねえわけにゃいかんだろうよ。そういうわけで、こいつの意見が俺の意見だと思え」
「おい………」
「俺としてはデインそのものはどうでも良いが、ここには友がいる。友の髪や肌が何色でも、尻尾や翼があろうがなかろうが関係ない。友が泣くならその涙を止めるのが我ら獣牙の民だ。そのためにできることがあるならば力を貸そう。そういうわけで、鴉王、とりあえず俺はなにをすれば良いのだ?」

 スクリミルは大らかな笑顔でエディとレオナルドを見て言うと、やっぱりふんぞり返って俺を見た。副官のライは、また耳をへたらせてぺこぺこと顔の前で両手を合わせるだけだ。
 あとは、グレイル傭兵団がどうするかって話か。
 今度は喜びの涙でむせる子ども二人にため息をついてベオクの大将たるアイクに視線を向けると、俺の言いたいことがわかったらしいな。アイクは二杯目のバター茶を飲み干しておもむろに口を開いた。自分の隣に座る、いつまでも少年のように若い軍師を見ながら。

「セネリオ」
「………はい。とりあえず、問題点を整理しましょう。早急に解決策を講じるべき問題は二つです」

 やっぱり、こうなるか。
 セネリオは既に諦めてるんだろうよ。だからたぶん、俺からデインに対してなにかきつい制裁の一つでも期待したんだろうが、期待に答えられなくてちょっと申し訳ない気がしてくるな。

「まず一つめ。今回の泥の怪物の主な出現地であるデインの渓谷をどう鎮めるか。二つめ。デインの政情悪化をどう食い止め、治安の回復を図るか」
「決定的に兵の数が足りない。俺たちやお人よしのクリミア女王辺りなら賊どもの大掃除に必要な兵を出せるが、他国の介入は可能な限り避けなきゃならん。理由はわかるか? デイン王、巫女」
「ま、前と同じことの繰り返しになるからです」
「やっと取り戻したデインをまたどこかの属国にするわけには行きません」
「五十点だな。国内の政情不安を抑えるために外国の軍隊を使うと、その国の政府に当事者能力がないことを立証することになる。これは単に対外的な問題だけじゃないぞ。自国民を他国の軍隊で制圧なんてしたら国民の支持は地に落ちる。例え派遣されてきたのがどんなお行儀の良い軍隊であったとしても、自国民を守るより国益を優先させたと受け止められる。つまりは政情不安を抑えようとした結果、逆にそれを煽るだけになる訳だ。そうなったら中央政府なんてあって無きが如し、国土は刈り取り勝手の無法地帯に早変わり。今度こそデインはテリウスの地図から消えちまうだろうよ。ついでに付け足しておくが、人を動かすには報酬がいる。現在のデインにはそんな余裕はないし、前借できるような信用もないぜ」
「鴉王、判定が甘過ぎます。三十点でもまだ多い答えですよ」

 緊張しながら答えた二人に、セネリオの冷たい声が飛ぶ。こいつは教師に向かないな。萎縮させるばかりで能率が上がりそうもない。

「あなた方は、自分の立場を自覚していますか? どうして高い地位にある者が非常時に最後まで飢えないのか。自分の食事を減らして部下に回すのが良い王だなどと下らない勘違いをされていては困ります」

 セネリオの厳しい言葉に二人の顔が赤くなる。……図星か。
 まあ、気持ちはわかるがな。俺も若いころはそうだった。
 同じようにニアルチに説教されたもんだ。
 王が倒れること。それが一番無責任だと。

「最後の最後まで王は無事でいなければなりません。王に無事でいてもらうために命を懸けることこそが衛兵や騎士の誇りであるのは、正しいことだと言えるのですよ」
「一つ付け加えておくぜ。王が自らの食事を減らしてでも自分に食わそうとする姿を見て、喜ばない部下はいない。ただ、その部下ってのがたった一人じゃないことを忘れちゃならないがな」

 飢えた者全員に分けられないなら、初めから分けるべきじゃない。中途半端だったり不公平な施しは他の者の不満を煽ってより事態を悪化させるだけだからな。
 そこまで言うと、ようやくセネリオの言った言葉の本当の意味がわかったんだろう。顔色を白くした二人が真剣な面持ちで頷いた。
 そうだ。民を飢えさせてでも自分一人が健康でいることも王の仕事だが、第一に民を飢えさせちゃならない。

「さて、ここからが本題だ。問題を絞り込んだところで考えられる策は?」
「あの怪物に有効な手段は炎の魔法と……光魔法ですね。あとは聖水と銀の武器ですが……」
「銀の武器は高価だから数がありません。鴉王さま、わたしは光魔法を使えます。残った神官の皆さんの中にもいるはずだわ」
「だが、正規兵が首都の治安維持に手一杯で余力のない今、各地の神殿にいる神官戦士たちは領民を守る貴重な戦力だろ。動かせないぞ」
「それは……そうですが、あの、術符を作らせています。光魔法の術符なら、魔法を使えない者でも使えますから」

 それが手配済みだったのはまずまずだな。必死に考えを巡らせるデイン王の隣で、巫女も頷いて続けた。

「渓谷には、わたしが行きます。わたしのせいで死んでいった彼らをこれ以上苦しめたくない。その術が戦うことしかないのは辛いけど、でも……大切な人を手に掛けるようなことをさせるのは、もっと辛いわ」
「ミカヤ…!」
「今度こそ、きっと……彼らを救うために、ペレアスさまを、わたしを信じて死んでいった彼らに、せめて報いたい」

 夜明けの太陽に照らされた水面のような目を潤ませて言った巫女の言葉に、リュシオンがそっと頷く。
 せめて、最期の眠りが安らかであるように。
 そして、残された彼らの大切な人々の生活を取り戻すために。
 そうだな。……その通りだ。
 なにより、この国では国王になにかあった場合、もう代わりになる者がいない。万一のことがあるなら最後の王よりも巫女の方がまだ挿げ替えが利く。
 国が荒れすぎて以前のような熱狂的な支持はなくなったようだが、それでも今は巫女よりも王の方に民の怒りが向いてるからまだ動きやすいだろうしな。

「だが、あんた一人でなんとかなるわけじゃあるまい? 術符を使いこなせる兵がいるのか?」

 敢えて厳しい表情で尋ねると、巫女は唇を噛み締めて俯き、けれどすぐに顔を上げた。

「いいえ」
「無謀なことはわかってるな?」
「ええ」

 頷いた巫女の視線の先にいるのは、黙って話し合いを見守っていたアイクだ。

「アイク……お願いします。ユンヌの声が聞こえなくても、もう自分の力だけで解決できることじゃないことはわかってる。サザも、これ以上あなたに迷惑をかけたくないって言ってたわ。なにより、あなたたちは傭兵なのにすぐには報酬をお支払いすることはできません。でも、どうか力を貸してください。勝手なことを言ってるのはわかってるわ。だけど、わたしたちだけの力じゃもうこのデインを守れない。だから……!」
「サザは、団員だ」

 巫女の必死の声に答えたアイクの声は静かだった。傭兵団の面々は誰も、なにも言わない。
 こういうところはこいつも王みたいだな。こいつの決定が団の決定ってわけだ。

「団員は家族だ。家族が困ってるなら、俺はそれを助ける」

 ただセネリオだけが瞑目して小さく息をつくと、今度は呼ばれる前に口を開いた。

「では、その件は傭兵団への依頼……ということで良いのですね?」
「ああ。ミカヤ、デイン王、そうだな?」
「は…はい! はい…!」
「支払いが遅れる分、報酬は上乗せしますよ。僕もあなたも人より寿命が長いのです。絶対に取り立てますからそのつもりで」

 セネリオだけが涙ぐんで頷くミカヤに冷たく言うが、内容がそれじゃ笑うしかないな。だが、ミカヤの言葉ではっとしたらしいデイン王も、姿勢を正してティバーンの方を見た。
 嫌な予感がする……っていうより、これはもう確信だ。

「鳥翼王…!」
「なんだ?」

 こちらも必死な目をして自分を見上げるデイン王に、ティバーンはまるで息子を見るような視線を向ける。

「お願いします。どうかデインを……」

 ティバーンを口説きたいなら、そうじゃないだろ。
 言わなくても本能的にわかるか。こういう小僧は。
 がたりと音を立てて立ち上がったデイン王が、ゆったりと組んだままのティバーンの腕に取りすがって頭を下げた。

「僕を、助けてください! お願いです…!!」

 やられた。
 泣き出さんばかりの様子で縋ってきた若輩の王を、この男が見放せるかよ。
 ゆっくりと腕を解いて痩せたデイン王の肩を抱くと、ティバーンは艶のなくなった青い巻き毛をがしがしと撫でた。
 鷹よりさらに熱い獣牙のスクリミルがどうするかなんて明らかだ。ライも肩を竦めてるし、俺も覚悟を決めるしかなさそうなんだが……どうも、素直に従うのは癪に障るな。

「そこまで頼まれちゃしょうがねえな。おいネサラ、頭を貸せ」
「………外せるもんなら外しますがね。外す機会を自分で奪っておいて今言うか?」
「やかましい。キルヴァスもてめえが代替わりしたころにゃガタガタだったのを一人であそこまで立て直したんだろう。大体、デインが潰れて難民が溢れたら困るって言ってたのはおまえだろうが」

 言ったさ。言ったが、だからってなんで俺が……。
 文句を言う前に、暖炉のそばでこっちを伺う善意の固まりのようなキルロイと、捨てられそうな仔犬のようなエディとレオナルドの視線が突き刺さる。
 あげく、とどめのように「ふむ」と頷いたセネリオまで言いやがった。

「その辺りのことは僕も興味がありますね。キルヴァスの状況も相当酷かったとか……。一度お話を伺いたいものです」
「あのな、おまえはどっちの味方なんだ?」
「アイクの味方です。決まってるでしょう。僕はアイクの決定を支持し、ただ助けるだけですよ。もっとも、その決定がアイク自身を危険に巻き込むようなことなら全力で阻止しますが」

 なんとなく、こいつだけは俺と感覚が近いんじゃないかという期待は夢だったみたいだな。
 やれやれだぜ。―――ったく!
 落ちかかる前髪をかき上げると、俺は大きな息をついて二人に向き直った。
 リュシオンも俺を見て笑ってやがるが、べつにこの二人のためじゃないぞ。子ども二人は可哀想だし、なによりも鳥翼王が決めたことだ。俺に否と言える権利があるかよ。

「渓谷の鎮圧については俺たちが出向く以外に方法はないだろうよ。戦力的にもな。怪物一人一人はそれほど強くない。ただ、どちらにしろ魔道士が巫女とセネリオ、あとはキルロイか。これだけってのは心もとないぞ。術符には限りがあるんだ。なるべく節約したい」
「鴉王、ベグニオンにはトパックがいる。魔道書の仕入れについては、行商団に相談したらどうだ? イレースもいるだろう。確かルキノのところに行くと言っていた」
「ローラも光の魔道書なら使えるわ。あとは……」

 俺の意見に頷いたアイクの後からミカヤが付け足す。スクリミルとライは魔道書も術符も使えないからな。「ならば俺たちが神官たちを守る盾となれば良いな」と勝手に加わった。
 さらにとんでもないことを言い出したのはリュシオンだった。

「もちろん私は術符を使うぞ。光魔法の術符なら相性も良いと聞いた。それに、タナス公も働かせたらどうだ?」
「ま、待て! なんでベグニオンの元老院議員だったあいつがここで出てくるんだ!?」

 今は金がなくて苦労してるわけじゃなし、あの鷺狂いとリュシオンをまた対面させるなんて冗談じゃない!

「おい、リュシオン。そいつは俺も賛成できねえな」

 ティバーンも厳しい表情でリュシオンを見たが、当のリュシオンは堪えた様子もなく平然と答えやがった。

「デインがこれほど困窮するそもそもの原因はベグニオンの元老院が仕掛けた血の誓約です。タナス公はなにも知らなかったとはいえ、責任は責任でしょう。償わせれば良いんです」
「だからって! あんなヤツを呼んでみろ、なにを要求するかわかったもんじゃないぞ!?」
「この私をペットにしようとしたんだ。その侘びぐらいさせるのは当然だろう。セリノスに来るのは断じて赦さないが、ここはセリノスじゃないからな。あれだけ体格も良いんだから持てるだけ魔道書を持たせて、一番の最前線で戦わせれば良い。大体、タナス公だったら魔道書の費用の心配もいらないだろう?」

 ………清廉潔白なはずの鷺がこんなことを言うようになって大丈夫なのか、心底心配になったが、リュシオンから感じる気は相変わらず僅かな濁りもなくひたすらに「正」だ。
 ティバーンもそれがわかったんだろう。最後には笑っていた。

「よし、決まったな。じゃあ、渓谷の鎮圧はそれで良いとして、治安の方はどうするのだ?」
「あっちもこっちもガタガタだしなあ、まさかオレたちが抑えるわけにもいかないだろうし、かといってアイクたちだけじゃいくらなんでも人手が足りないだろ?」

 スクリミルとライが首をかしげて「う〜ん」と唸る。
 テーブルの上に出されたお茶は、いつの間にかバター茶から濃い目のミルクティになっていた。

「村を一つずつ制圧していったとしても、結局はイタチごっこになるでしょうね」

 アイクと自分のカップにどぼどぼと蜂蜜を注ぎながら言ったセネリオに、俺も小さく頷く。
 そう、そこだ。方法がまったくないわけじゃないんだがな……。

「あの……実は、そのことでお話が……」
「ん?」

 さて、どうするか。俺が顎を摘んで考えているところに、ティバーンの手から抜け出したデイン王が小さな声で言った。
 それも、結構な爆弾発言を。

「僕は、王位をミカヤに譲りたいと考えています」
「ペレアスさま、その話は…!」

 おいおい、穏やかじゃないな。
 思いつめた表情で言ったデイン王に、ティバーンの表情が厳しいものに変わる。
 そりゃそうだ。こんな時に、そんな無責任な話があるか!

「意味をわかって言ってるのか?」
「も、もちろんです。今はこんな状態ですから退位するわけにはいきません。僕のような者でも王位は必要です。でも、民の中に僕の退位を望む声が上がっているのも事実です。だから事が落ち着いた後には、民から寄せられる信頼の大きな『暁の巫女』ミカヤの方が王になった方が相応しいんじゃないかと」
「お話になりませんね。良い時代はもてはやし、少しでも気に入らないことがあると退位を望む民の声にいちいち振り回されてどうするんです。デイン王家の血を絶えさせるおつもりですか? そんなことをして先代のアシュナード王やあなたの不始末の責任を取れるとでも?」
「違う! 僕は…!!」

 なんだ?
 軽蔑を隠しもしないセネリオを振り返ったデイン王の表情が変わった。
 今までの弱々しいものじゃない。もっと強い感情を秘めた顔だ。

「王家は、続いていることに意味があるんですよ。たとえ永遠のものではなくても、今あなたは生きて玉座についている。玉座というものは一度座った以上、やすやすと降りられるものではありません」

 そこまで言って言葉を切ると、セネリオの紅い双眸にいっそう厳しい光が浮かぶ。

「なにより、現在この大陸に存在する他国は、あなたをその玉座から引きずり落とすつもりはありません。デインを守りたいという言葉が本当なら、そんな世迷い事はやめるべきです」
「厳しいようだが、俺もそう思うね。どうしても巫女に王位を譲りたい理由でもあるのか?」
「……僕は……」
「仮に巫女に王位を譲ったとしよう。だが、彼女はデイン王家の血を引いていない。それがどういうことかわかっているか?」

 セネリオに続いて俺も声の調子を低くして言うと、デイン王はゆるゆると首を振って項垂れた。
 わからないか。……だから簡単にそんなことを言えるんだろうな。

「国を牛耳りたい連中に絶好の理由を与えることになるんだよ。手段は選ばんだろうさ。なにせ相手は『正当な血を継ぐ後継者じゃない』んだ。それでも善政を敷いて民の支持を集めている間は良い。だが一度でも飢饉だの災害だので不満分子を生んでみろ。玉座から引きずり降ろされるだけで済めばいいが、あっさりと殺されるだろうよ」
「!」
「たとえおまえがどんなにぼんくらな王だったとしても、おまえにデイン王家の血が流れている限り、そう簡単に手は出せない。暗殺にしろ謀略にしろ、玉座を狙う者の間で潰しあいになるだけだな。だが、巫女の場合は話はもっと簡単になる。彼女を王位に据えるってのは、そういうことだ」

 若いとはいえ、もう十代のガキでもないだろうになにを世迷いごとをほざいてるんだか。
 呆れはしたが、顔色が変わったところをみるとそこまで考えてなかったんだろうな。

「おまえの言い草はいざ座ってみたら思ったより王冠が重かった。だからやめたい、手近にいた巫女に後を任せて自由になりたい。それだけだ」
「鴉王さま…! ペレアスさまは、そんなつもりじゃ…」
「本人がどういうつもりかって話じゃない。そう思われても仕方がないってことなんだがね」

 項垂れたデイン王を庇うように巫女が俺に言うが、俺はばっさりとその抗議を切り捨てて深い息をついた。
 ……クソ、つい感情的になっちまった。これじゃまるで俺が自分のことを思い出してこいつに八つ当たりしてるみたいじゃないか。

「ネサラ……」
「なんでもない。大丈夫だ」

 そっと俺の背中を撫でたリュシオンに笑いかけて俺は姿勢を正した。思った通り、スクリミルやライ、ティバーンもなにか言いたげに俺を見てやがる。
 痛くもない腹を探られるのは気分が悪い。ここはとっとと話を変えることにするか。

「話を戻すぞ。デインの治安回復についてだが、俺の調べた限りでは、まだ残ってる有力貴族が三人いる。それぞれ私兵も持ってるはずだ。デイン王、こんな有事にこいつらはどこで遊んでるんだ?」
「なんだ、おまえ。いつそんなもん調べたんだ?」
「他国の情勢を探るのも俺の仕事だろ。いいからあんたはちょっと黙ってろ」

 目を丸くしたティバーンを一言で黙らせると、デイン王も困惑した様子で答えた。

「それが……わからないのです。書状は出したのですが……」
「返事がない?」
「はい」

 ほう、言い訳もなしとはとことん舐められてるな。

「それならもう一筆必要だな。どうせおまえたちのことだ。呼び出し方が甘かったんだろう。俺が書状を書いてやるよ。どこにいるか知らんが、とりあえずまず領主館だな。ハールに届けさせよう。ジルじゃ見た目で舐められるが、あの男なら迫力もある。その場で返事を書きたくなるようなヤツをな」
「は、はい……。お願いいたします」

 にやりと笑った俺に不安そうなデイン王と巫女が顔を見合わせたところで、俺はさらに続けた。

「それから、一つ確認しておく。王位を巫女に譲ってもいいってことは、いざって時に王位に未練はないってことだな? で、一番の目標はデインの治安回復。それは間違いないな?」
「はい。もちろんです」
「ただし、荒療治だ。そこは覚悟しろ。本当だったら避けるべきやり方だからな」
「はい…!」

 生気が薄れていたデイン王の頬に赤みが差し、食いつくように俺を見る。
 その視線に頷きながら、俺は一つの方法を説いた。
 本当は、渓谷の鎮圧だけ考えて後は適当にやり過ごすつもりだったんだがな。気がつくとすっかり話が長引いて、話の途中から辛抱しきれずに口を出し始めたセネリオも交えて続いた話し合いは夕食の時間を大きく過ぎても終わらなかった。
 ようやく解散できたのは夕食ではなくて夜食といってもいいような時間になってからだ。
 人払いをして、待ちくたびれていただろうジルとハールを呼んで話し合いの内容を聞かせると、ジルはしきりに感心していたが、ハールはいつもの眠たげな隻眼でちらりと俺を見て言いやがった。

「なるほど。……面白いな」
「ぼんくら貴族が食いついてくるかどうかはおまえの手腕にかかってるぞ。元ベグニオンの竜騎士なんだ。それらしくやってくれ」
「面倒だが、仕方がない。わかった。あんたの期待には応えられると思うぞ」
「それは頼もしい」

 目を見交わしてにやりと笑うと、ようやく空気を察したらしいジルが俺とハールを見比べて焦りだす。べつに危ないことをさせようって言うわけじゃないんだが、やっぱり旦那のことは心配なんだろうな。

「ちょ、ちょっと待ってください。どうしてハールさんだけなんですか? 私も行きます!」
「駄目だ。べつに荒事じゃない。それに明日は渓谷への偵察もある。なにより、あんたじゃ見た目で舐められるから今回の用件には向かないんだ」
「そうじゃなくて! 大事な書状なんでしたら、それこそこんな居眠りばかりの人に任せるなんて…!」
「おい、いくら俺でもまさか王の書状を届けに行く時まで居眠りはせんぞ」
「それでも、しそうだから言ってるんです!」

 ………なんでこの二人がケンカになるんだ?

「おい、どうした?」
「なんでもない。腹が減ってるんだろ。いいから先に行っててくれ」

 ジルの大きな声を聞きつけたらしいティバーンが帰って来たが、それも気にせずにまだ言い合うんだから大したもんだ。

「とにかく、ハールさんだけに任せて置けません! 事と次第によったら、そのまま反乱軍の鎮圧になるかも知れないんですよ! わかってるんですか!?」
「わかった、わかった。まったくうるさいヤツだな」
「じゃあ、私が行ってもいいんですね!?」
「それとこれとは別だ。――ジル・フィザット!」
「!」

 いかん。ジルが優勢になってきた。
 もう一度俺が諌めようとしたところでいきなり鞭がしなるような号令が響いて、骨の髄まで叩き込まれた習性なんだろう。ジルが姿勢を正す。

「命令だ。必ず無事に帰るから、俺の帰りを待ってろ」
「ず、ずるいですよ…ッ!」
「ずるくない。――というわけだ。鴉王、明日の朝あんたの部屋に伺う。それまでに仕上げておいてくれ」
「……わかった」

 泣きそうな顔で言い募るジルを無視して俺に向き直ったハールの顔はもう、見慣れた眠そうなものに戻っていた。

「さて、じゃあ行くか。俺も腹が減った」
「あ、ハールさん! もう、挨拶もしないで…! も、申し訳ありません。では失礼いたします」

 そのままティバーンに片手を上げて出て行った広い背中を困った顔で見送ったジルも、鮮やかな赤毛を揺らして大きく頭を下げて出て行った。
 まったく、驚いたぞ。あの二人、本当に夫婦なのか?

「ティバーン、なにかおかしかったか?」
「おまえはおかしくねえのか?」

 戸惑いながら二人を見送った俺の隣でいつまでも笑うティバーンののん気さに呆れて視線を向けると、ティバーンはにやにやしたままそんなことを言いやがる。

「おかしくねえかって……目の前で夫婦げんかされてへらへら笑えるほど、俺は無神経じゃないぞ」
「そんな難しい話じゃねえ。それこそ犬も食わねえよ。笑うしかねえだろ」

 なんだか、俺のせいでケンカをされたようで後味が悪い。上手く仲直りしてくれればいいんだが……。
 眉をひそめて腕を組むと、ティバーンの大きな手が肩を抱く。……まだ笑ってるのか。

「歳は離れてるようだが、なかなか仲の良い夫婦だな」
「仲が良い? ケンカをしてたのが見えなかったのか?」
「あんなもんケンカの内に入るかよ。畜生、すっかり当てられちまったぜ」

 確かにケンカをするほど仲が良いという言葉はあるが……わからん。

「だから、難しく考えるな。おまえの悪い癖だぜ。とっとと飯を食うぞ。戦の前に腹が減ってたらろくなことにならねえ」
「この貧しい国で腹いっぱい食おうっていうあんたの根性には恐れ入るけどな」
「ぼやくなよ。後からでも釣りが出るぐらいの獲物を狩るさ」

 そう言って頑丈そうな白い歯を見せたティバーンは、ため息をついた俺を引きずるように歩き出した。
 食堂の方から待ちかねてるらしいボーレとガトリーの声、それをうっとうしそうに叱りつけるシノンの声が聞こえてくる。
 アイクもさぞ情けない顔をして待ってるだろうな。……そう思うと少しだけ笑える。

 その夜、慎ましいながら心づくしの夕食を終えて早々に入浴も済ませ、財政難でも客室の美術品は売らなかったんだな。それなりの体裁が整った客室で草案を書いていると、セネリオが訪ねてきた。
 驚いた。こんな時間に俺の部屋に来るといえば、リュシオンかティバーンぐらいしかいないだろうと思っていたからな。

「やっぱり起きていましたね」
「アイクはいいのか?」
「鳥翼王と違ってお守りは必要ありませんから」

 ……手厳しいね。だが、事実だな。
 そのティバーンは俺の話を聞いてると頭がこんがらがって痛くなるとほざいて、酒を煽ってもう寝てる。もちろん、違う部屋だ。

「あの提案……本気ですか?」
「ん? あぁ…まあな。――というより、選択肢がなさすぎる」
「それについては同感です」

 魔道士らしく薄着のセネリオが言ってるのは、あの話し合いの場で治安回復策として俺が出した提案のことだ。
 金と人手を持つ貴族が三人残ってる。それなら、どうにかして連中を表に引きずり出さなきゃならん。
 有り金持ってよその国に行かれても困るしな。

「貴族と…商人ですね」
「そうだ。ベグニオンやクリミアにもめぼしい連中が少ない。このデインの中に、金を持ったまま息を潜めて身の振り方を考えてる商人どもがいるはずだ。見方を変えりゃ、今が私服を肥やす好機でもある。野心をつつきゃいいのさ。この戦争で断絶した貴族は多い。浮いた爵位を取る機会を与えてやれば、それだけでも動き出す輩が出るはずだ。金だけ持ったベオクが次に欲しがるのは、なぜか決まって地位だの肩書きだからな」
「そのために領地を切り売りですか……危険ですよ」
「そうだな。危険だ」

 連中に自分の欲しい領地を制圧させて、そこの領主に据える。一年待って落ち着いたところで、そこで出せた利益に応じて報酬を渡す。
 もちろん、領主としての生活を保証した上でな。

「そうやって各地方の領主となった者がやがて力をつければ、それぞれの利害をすり合わせた結果、あの元老院のような組織になるでしょう。ベグニオンの二の舞になるんじゃないですか? 僕がみたところ、ペレアス王やミカヤには政治に口出しを始めた彼らを止められる技量はありませんよ。また国が荒れるだけです」
「それでも、一定の安定は得られる。あの大戦の中で自分の財産を死守した連中だ。搾取する相手を殺しちゃ自分の首が絞まることぐらいわかってるさ。領地の再編にもなるし、領民の生活を守った者がそれなりの生活を許される。悪くはないだろ?」

 笑って言うと、セネリオは細い眉を上げて俺の書いた草案を拾って読み、ぼそりと言いやがった。

「少なくともペレアス王の在位中は国内のごたごたに手一杯でベオクの国の一つがおとなしくなる。デインのラグズ差別は根深い。でも、利益追求にのみ忠実な商人とは現段階でも既に友好関係を築きつつある。ベオクは状況の変化に流されやすいものです。混乱期を利用すれば親交が深まるのも早い。……そういうところですか」
「おいおい、それじゃまるで俺が悪巧みしてるようじゃないか。だったら訊くが、ほかにこの国の治安を早急に回復する手立てがあるか?」
「………国を荒らしている連中が突然改心すること、ですね」

 セネリオ自身が一番あり得ないことだとわかってるんだろう。苦い表情のセネリオに笑うと、俺は書き上げた命令書の封蝋を眺めて足を組み替えた。

「セリノスからも食料を少し出すそうですね」
「これでクリミアとベグニオンも、恐らくは開国しようというゴルドアも無視はできなくなるだろうな」
「まったく、借りばかり増やして……この国の王はどうするつもりなのやら」

 それを決めたのは、もちろんお人好しのティバーンだ。
 もちろんセリノスだってそんなに貯蔵が豊かというわけじゃない。有事の際の食料は確保しての話になるが、セリノスが動けば他国も動かざるを得ない。政治的な緊張を解す意味でもな。
 もっとも、そのせいでデインはますます国としては肩身が狭くなるわけだが。

「言っておきますが、僕は無料奉仕しませんよ。今回の依頼料も、なにがなんでも取り立てます」
「そうしろ。俺たちの分もぶんどってくれ」
「飢えた流民が流れてくる方が迷惑なのはわかってますよ。それでもお人好しが過ぎると思いますけどね。あなたはもう少し現実主義者だと思っていましたが」
「まったくな。俺もそう思う」

 いつか、俺たちの国が、他の国が困ったら恩を返す――。
 あの二人は本気でそう考えているだろうが、それはないな。それがベオクだ。
 良いことも悪いことも、すぐに忘れる。恩なんて真っ先にだ。
 これはべつにあの二人を指して言ってるんじゃない。あの二人が覚えていても、他の者はあっさり忘れるって意味だ。
 ……ベオクにそんな夢を持っちゃいない。少なくとも、俺は。
 良くてもその恩義を覚えてるのは今のデイン王が存命中だけだ。代が変わればすぐになかったことになるだろうさ。
 ある意味、幸いなのはデインが加害者だったことだな。完全な被害者の立場だったら、――もっとも、デイン王と巫女は自分たちも元老院に陥れられた被害者だと信じてるだろうが――恨みだけを残して、何代もうるさかったろうさ。
 信じられるベオクがいることは俺だってわかってる。あの二人をまったく信じていないわけじゃないが、ベオクの大半はそういうものだって知ってるからな。
 たとえば俺たちラグズに対してもそうだ。
 先祖がラグズに殺されたことは伝わっても、その先祖が殺したラグズのことは伝わらない。下手すりゃ理由まで捻じ曲がって伝わってる。
 寿命が長い分、そんな事例はいくつも見てきた。鳥翼族の中じゃまだ若い俺だってベオクならもうそろそろ死んでいてもおかしくない歳だしな。

「まあ、あなた方が納得しているなら僕にどうこう口出しする資格はありませんね。わかりました。それでは明日」
「あぁ、わかってる。視察だな」
「そうです。では」
「おやすみ」

 言うだけ言いやがって、セネリオはにこりともせずに部屋を出て行った。
 ……しかし、なんだな。本当になんだか俺は悪巧みばっかりしてるみたいだな。
 一番に守るべきは自分の国だ。それは昔も今も変わっていないが……。
 俺が示した方法はそれほど悪いものじゃない。それでもなんだか自分が卑怯な気がするのは、不思議なもんだ。
 ふと窓の外に目をやると、ぼんやりと光が見えた。誰かが外にいるらしい。
 絹の夜着の上に羽織ったガウンの紐を結びなおすと、俺はテラスに出てその気配を探した。
 淡い金色の光……鷺の魔力だな。だが、リュシオンより光が弱い。はっきり見えないが、この気配はデインの巫女だな。
 こんな時間に無用心だとは思うが、ここはもうあの巫女の城でもある。
 黙ってかがり火も届かない夜の中に佇む華奢な背中を見守っていると、空からちらちらと薄い氷の欠片のような雪が降ってきた。
 誰のために祈るのか、そして足掻くのか。
 生きてる者のためじゃなきゃならない。少なくとも、今は。
 巫女の身体を包む金色の光が強くなる。祈りに集中しすぎて、淡く光魔法が発動してるからだ。
 その光に照らされた薄い氷の欠片がきらきらと光を弾いていた。
 幽玄の美しさだが……淋しい、悲しい光景だった。
 自分でやったことの不始末は、自分でつけなきゃならない。
 だが、誰しもが力があるわけじゃないんだ。
 自分の力が足りないことを、及ばないことを知っていて、なお立ち向かうことを蛮勇だと一言で片付けることは、俺にはできない。
 民のことを思えばこそ、その優しさが欠点になってることはデイン王も、この巫女も気の毒だとは思うさ。
 逃げたい時に逃げない。
 それだけのことにどれほどの勇気がいったことか……。
 俺も、のん気に同情なんかできる立場じゃないんだがね。
 セネリオ辺りが見たら、そんなことする暇があったら術符の一枚でも余分に作れなんていう場面だろうしな。
 ……それでも祈るのは、本当に取り返しのつかないことを、その悔しさを知ってるからこそだ。
 そこから自分で足を踏み出せなければ、たぶんもう一歩も動けない。
 微動だにせずに夜の庭にたたずむ巫女の後姿を見ながら、俺は声もかけられずにただ重いため息をついた。





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